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​ 浄土真宗の教え 

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「願海」2021年12月掲載

問題は常にあり、問題は内にあり」

 

  この言葉を通して浄土真宗の教えについて考えていますが、これはもと住岡夜晃(すみおかやこう)先生の言葉であります。

 

(後 編)

 

「六光学苑」のある向洋(みかいなだ)は広島市の一番東の端に位置し原爆の被害には遭っていない地区でした。古い然しなにかしっかりとした民家が建ち並ぶ、その一番奥の高い石垣の上に白い土塀をめぐらした寺が法林寺(ほうりんじ)で、その寺を解放して「六光学苑」が併設されていました。然しこの寺は通常の寺院のような門徒は一軒もなく、住職の藤解(とうげ)先生が毎月前半三日間、後半三日間の法座を開かれ、近在の人々は勿論、それこそ全国から先生の教えを信じ、その教えを聴聞する為に泊まりがけで参詣される人も少なくありませんでした。ですから普通の寺院のような門徒の葬式・法事はありません。浄土真宗寺院本来の正に聞法の道場なのです。その法林寺の中に「六光学苑」は藤解先生の意志で併設されていました。

   私が入苑した当時は年齢も不揃いの男女合わせて十名程の苑生でした。後で分かりましたが中に最近刑務所から出所したばかりの男性もいました。皆の食事は自給自足で、法座があり宿泊の信者が居られる時は、その方の為のお世話も苑生の役目ですから結構大変のようでした。

日常の生活は、朝は毎朝五時半起床。それぞれ手分けをして内外の清掃、境内(けいだい)の掃除の箒の使い方一つも形があり、厳しいことを教えられました。すべてに慣れない私などは失敗ばかりの繰り返しでした。それから本堂での勤行(ごんぎょう・おつとめ)の終了後、食堂で全員の食事で自給自足した。法座の無い日は、午前中は先生の浄土三部経や親鸞聖人の聖典の講義を、先生の若い時代の求道生活のご苦労を交えながら話され、分かり易く感銘深いものでした。午後はそれぞれ自由の時間もあるのですが、学苑の主事の役目をされている大石法夫という方がおられ、非常に自由な形で聖典の自習などの面倒や、個人的な相談などにも非常に親切に応じておられました。  

 

 この方は戦時中、京都帝国大学卒業後「人間魚雷」の搭乗員に応募して、山口県光基地で訓練を受けていた人でした。出撃命令が出れば必ず死という立場に立たされた時、それは国の為「名誉の戦死」とそれは分かるのだが、正に競争から競争を繰り返してきた私の人生とは何であったか、つまり「人生における問題」を通して、始めて「人生そのものが問われた」。その課題をもって戦後藤解先生との出会いを通して、親鸞聖人の真宗の教えこそ、それを教えられる教えと聞かされ、一切を投げ打って出家しこの「六光学苑」の主事のような役目をしておられました。

 この方には奥様、三人の子供さんもおられ、御寺の外に別に家庭を持っておられましたが、夜、家に帰られるだけで朝から学苑の生活と一緒でした。私はこの学苑での生活で一番御恩を頂いたのがこの大石先生であったと今も考えています。

 

 私は後に学苑を出て京都の大谷大学に学びますが、その名誉教授に金子大栄(かねこだいえい)という先生がおられ、その方の言葉に「道徳は人間の問題、宗教は自己の問題」という言葉ありますが、戦時中の「名誉の戦死」は結局戦時体制下の日本人としての道徳の問題で、大石先生は死に直面して「自己とは何ぞや」と自己の存在そのものを問われた。そして戦後それこそ親鸞聖人の浄土真宗の教えはその事を教えた教えだと藤解先生は大石先生に道を示され、その教えにしたがって大石先生は出家し念仏行者になられたのでした。

   

 私はこの大石先生の教えを通して全く自己自身を問う道を知らず、ただ自己と社会との矛盾に苦しんでいた自分に初めて気付かされました。そしてそれを明らかにする道として、私は現在在学している大学を止め、出家して藤解先生、大石先生に従って生きて行くことを決心しました。それは母も兄も絶対反対しましたが、私の決心は変わらず今日があります。手術中の夢の中でそうした思い出が頭の中ではっきりと映し出されました。

浄土真宗の教え 11

​ 浄土真宗の教え 

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「願海」2022年2月掲載

「問題は常にあり、問題は内にあり」

 

  この言葉を通して浄土真宗の教えについて考えていますが、これはもと住岡夜晃(すみおかやこう)先生の言葉であります。

   私は昨年八月本堂の廊下で転び重傷を負って柳川病院に入院しました。そして、そこでの約二カ月の入院生活が私自身の九十年の歩み、特に親鸞聖人の念仏の教えにお育てをいただいた御恩を振り返る機縁になり、そこで思い出された事柄を先々月からこの寺報に書かせていただいています。

 現在私はこの光善寺の前住職ですが元々私は普通の家庭で生まれ寺の生まれではありません。その私がたまたま浄土真宗の藤解照海(とうげしょうかい)という高僧に出会い、その方に感化されて出家し僧侶の道を歩み始めた人間であり、その詳しいことは前回の寺報に書きました。

 

   私の生まれた家は浄土真宗の門徒でしたから、お寺でご法座が開かれお説教がある時は家族皆でお参りして聴聞していましたが、そこで話されるお話しの内容は、何となく死後阿弥陀仏の浄土に生まれる為に日々如来様を信じて念仏し、善行に励めよという教えであったように感じていました。

 ところが「親鸞聖人の教えは未来、死後の問題ではなく、現在唯今、善悪に又損得に左右されて苦しんでいる私にそうして苦しんでいる『自己とは何ぞや』という人生の根本問題を明らかにし、念仏の仏法によって現在を生きる道を教えているのが南無阿弥陀仏の仏法であり、死後の教えではない。」という事を教えられて驚いたのがこの教えに傾倒したきっかけでした。

   阿弥陀佛の浄土は単に死後私の魂が生まれる世界ではなく、現在唯今善悪・損得で苦しんでいる我々凡夫(ぼんぶ)の境涯を穢土(えど)と知らせ、そこは永遠に救いの無い境涯である事を知らせ、その穢土を超えた阿弥陀如来のまことの世界である浄土に生まれよと今現に呼びかけ続けておられるのが阿弥陀如来である。そして、その呼び声に呼び覚まされた姿が南無―阿弥陀仏である。

「南無」はインドの言葉です。それを中国語、漢字に翻訳したのが「帰命」ですから「帰命無量寿如来」「無量寿如来に帰命す」が南無阿弥陀仏。

   浄土は死後の世界ではなく、称える現在唯今、我々凡夫の世界を超えた阿弥陀佛の大悲(だいひ)に眼開かれ、その浄土にのみ真実の救いの道があり、我欲(がよく)で固めた穢土に救いのないことを心から信ずる身にしていただくのである。それが「南無阿弥陀仏の信心」であり、それが親鸞聖人の教えられる浄土真宗()であると教えられたのです。

即ち私がこの世間の差別世界の中で、体は弱い、学校の成績は悪いということで、暗い劣等感の中で苦しんでいましたが、それはこの人間世界の優越感と劣等感のはざまの中の出来事で、結局どちらに転んでも救いはないのだ、如来様を信じて念仏申して浄土を願えと教えられ、何かはじめて人生に光を見出したのでした。         

浄土真宗の教え 12

​ 浄土真宗の教え 

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「願海」2022年4月掲載

   前回までは私が怪我をして入院し、手術中麻酔をかけられ意識の失われた状態の中で現れた私の九十年間の出来事の思い出について書いてきました。それは二十歳、大学一年生の夏休みの時、藤解照海(とうげしょうかい)という浄土真宗の僧侶によって開設された広島市向洋の六光学苑に入れていただき、生活を通して親鸞聖人の仏法を学ぶご縁をいただいた思い出でした。             

  その学苑で大石法夫(おおいしのりお)という人に出会います。この方は戦時中、山口県光基地で人間魚雷「回天」の搭乗員として訓練中、出撃命令がでれば死と決まっている中で、それは「日本男児として名誉の戦死、死は恐くないけれども、物心ついてから今日まで、ただ競争から競争を繰り返してきた私の人生は一体何であったかと言い知れぬ孤独感におそわれた」と、つまり死に直面して「自己とは何か」という自己の存在そのものが問われる体験をされます。

  そして戦後、たまたま藤解照海先生にお会いし、親鸞聖人の浄土真宗の教こそ、その事を明らかにされた教えであると聞き、大学卒業後、先生は周囲の反対に従わず、あえて藤解先生に従って出家し念仏行者になられました。その大石先生が学苑の主事の立場におられ、私は自身の悩みを先生に申し上げ、日々親しく指導をいただく中で、私は決心し、親の反対をふりきって学校を退学し出家しました。私の人生において藤解先生の教えを通して、大石先生にお会い出来た事が何ものにも代えられぬご縁であったと今も考えています。

   

   今まで述べてきましたように、昭和五年生まれの私の成長期は、昭和十二年の日中戦争、更に十六年の日米開戦と国を挙げての戦時体制の中で、生来病弱で意志も弱く、すべての事に消極的で暗い劣等感の塊のような青年期を過ごしていた私でした。それに対して大石先生は心身共に壮健、戦前の京都大学は帝国大学で、東京大学と並び学行優秀の人の学ぶところでした。云うまでもなく、小学生の頃から学行抜群の成績をもって生きて来られ、厳しい戦時体制の中では、海軍に入隊、小型潜水艦そのものが魚雷で、そのまま米軍の軍艦に突っ込んで爆死する人間魚雷「回天」の乗組員として、国の為、心身を捧げてその訓練を受けてこられた人です。

   先生は丁度私と対照的な人格者で、正反対の生き方をされた人でした。その大石先生が弱く愚かな私のような者の話を本当によく聞いてくださいました。今思い出してみても、それは優れた人格者がそうでない者を哀れみ、その話を聞いてやるというようなものは全くありませんでした。阿弥陀如来の本願、南無阿弥陀仏の大悲の前には「ともに煩悩具足凡夫」という深い自覚によって、私の全体をありのままに受け取っていてくださっていたのだと、今は本当に有難く感ずるのです。  

   しかし、その頃の私はそういう先生のお心に気づいてはいなかったと思いますが、ともかく先生の側で経典を読み、親鸞聖人の聖典に親しみ、藤解先生のお話しを聞き、今まで経験した事の無い心静かな、そして一日一日が本当に充実した日々を送ることが出来るようになりました。そしてその中で大きな転機になったのが日曜学校でした。学苑では近所の子供を集めて第一と第三の日曜日の午後、日曜学校が開かれていました。大石先生がその責任者で、そこで一緒に正信偈のお勤めをし、先生のご法話、その後真宗々歌や恩徳讃など仏教讃歌の練習などで大石先生の奥様がオルガンを弾いておられました。私達も一緒にそれに参加していました。ところが、そのうち大石先生が私に責任を持つように言われました。それは、先生と私との年齢の差がありました。私はまだ二十歳で若く、集まって来る子供との年齢が近く、子供たちが私に親しむようになった事と、先生の何か私に自信を持たせたいというお気持ちがあられたのでしょう。

   私はそれを有り難くお受けしたわけではありません。子供と一緒に遊ぶのはいいですが、相手が子供とはいえ、それに対して法話をするなどという事は大変です。私の当時の心境はそれどころではありませんでした。大石先生の仰せですからお受けせねばなりません。しばらく考えさせていただき、結局おおせに従いましたが、何日も考え悩んだ末の結論でした。

   私の思いついた事は、法話は出来ませんが、例えばお釈迦様の伝記や親鸞聖人の伝記を子供向きに書かれた書物は案外沢山あります。絵も交えたものが本山や一般の書店から出版されていることに気づきました。そこにはお釈迦様や親鸞さまの誕生、出家の因縁、ご修行のご苦労、そしてお悟り、お弟子に対して教えを説かれている説法など沢山書いてあります。子供向きですから、非常に具体的でまた易しく表現されています。それを読みながら、その後に私の感想と喜びを話せば、一応法話のかたちになる事に気付かされました。後で分かったのですが、これが子供たちに非常に喜ばれたのです。それを初めは文章をガリ版刷りにして皆に配って話していたのですが、しばらくして思い立ち絵本の絵を見本にして、それを拡大模写して紙芝居を作りました。そしてこれが大変人気を得て、最初七、八人ぐらいの会員でしたが、あっという間に二十人以上の会員になり、会が終わった後境内で、皆で遊戯して遊ぶような事も始まり、私や若い学苑の人もそれに入って今までにない法林寺の姿が始まりました。これが私にとって大きな転機になりました。

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